《余命10年》生肉7

  25歳、中間地点の冬。

  周りは慌しく変化していた。クリスマスが過ぎ、年が開け、バレンタイン間近になると、連動するように周囲は結婚へ動き出した。

  来るべき時が来たなという感じだ。最も恐れていたけれど、避けては通れない道。ここからは一斉に結婚レースの始まりだ。一足お先に一等賞をかっさらっている美弥はそんな様子を楽しそうに眺めていた。その笑顔は余裕の一言に尽きる。

  結婚、妊娠、そんなキーワードが周りに散乱していた。学生時代、茉莉は深くも浅くも人付き合いが上手だった。そのおかげで落ちてくる爆弾の数は半端じゃない。幸福な自分を見てもらいたい連中がひっきりなしにメールやらハガキやらをよこす。高校時代の友人から来たおめでたいハガキを床の上に投げ出すと、自分の身も一緒に投げ出した。

  代わり映えのしない天井をぼんやり眺めながら、今までの恋歴を思い出す。淡白な人生と同じ、面白みのない、興味をそそらないストーリーの螺旋ばかりが浮かんだ。

  「結婚か……」

  礼子が発病したのは結婚も出産も終えた3に近い頃だ。発病前に子供も産めたのだからある意味ラッキーだっただろう。女として最良の瞬間はちゃんと味わっているのだから。

  結婚や子供を産むこと以外、女にとって揺るぎない幸せってないんだろうか。着実に年齢は重ねていても、社会を少しも知らない茉莉には「揺るぎないもの」の選択肢さえ浮かばない。

  控えめなノックがして、返事を返すと枯梗が部屋へ入って来た。

  黒のタートルネックにジーンズなんてラフな格好をしていても、枯梗には華がある。

  「茉莉、ちょっといいかな」

  「ん、ど1ぞ」

  本物の美人は3を過ぎて本当に美しくなる。内面に蓄積してきた教養と経験が外見まで行き渡り、メイクから服装まですべてが落ち着いてくる。手入れが上手なので、白い肌にはシミひとつないし髪は毛先まで艷やかで2代の頃よりもつと綺麗になっている。結梗は多分、美しいおばあさんになるのだと茉莉は思った。

  枯種の話は、床に投げ出されたハガキと同じ内容だった。

  枯梗が結婚する。

  高林家の大騒動の始まりだ。

  枯梗にはもちろん恋人がいる。彼、鈴丘は神士でデキた大人だ。お見舞いに来てくれる時には茉莉の好きそうなCDを買ってきてくれたり、病室で使うスリッパを季節ごとに贈ってくれた。

  遺伝性の病気だとわかった時、枯種は茉莉にだけ発症したことを、まるで自身に非があったかのように激しく落ち込んでいた。枯梗に非があるなんて考えもしない茉莉にとって、自虐的な思考に因われている枯梗の暗さはストレスだった。だから、この世の終わりみたいな顔をしていた姉を常に支えてくれた鈴丘には密かに感謝している。

  姉の結婚準備は着々と進んでいった。鈴丘の転勤が決まっていたから早く進めなければならなかった。4月から群馬に転勤するので、ふたりは急遠結婚を決めたのだ。

  目の前でウェディングドレスの試着を繰り返している枯梗を眺めながら、茉莉は微笑んだ。枯梗の結婚が決まってから、茉莉は以前よりよく笑うようになっていた。

  「茉莉、これどうかな。さつきの方がよかった?」

  ふわふわの純白ドレスを線いながら枯梗が困ったように言う。

  「かわいいよ。全部似合う。いっそ、全部着れば?」

  「ええ? もう、ちゃんと選んでよ」

  「枯梗ちゃんが好きなのにすればいいよ」

  「だめ。わたしは茉莉に選んで欲しいの。ホラ、しっかり見て」

  「…うん」

  5枚目のドレスの試着をしているところに鈴丘がやってきた。引き継ぎなどで忙しく、式の準備はほとんど枯梗が仕切っていた。

  「茉莉ちゃん、こんにちは」

  「あ、鈴丘さん。休日出勤お疲れ様でした。今、枯梗ちゃん試着室です」

  绒毯が敷き詰められた衣装屋の広いホールには、ドレスと鏡と花嫁さんがあちらこちらに散らばって混み合っていた。

  ソファーの隣に座った鈴丘と、引き継ぎはもう少しで終わるとか、そうしたら自分も式の準備を手伝えるとか、そんな話をした。会話の中で鈴丘は茶莉たちの母が来ていないことをさりげなく確かめてから戸惑ったように訊いてきた。

  「茉莉ちゃん。枯梗のこと連れてっちゃって、大丈夫かな」

  「え?」

  「転勤が決まって、結梗にも来てもらいたいって思ったんだけど……寂しくないかい?」

  「枯梗ちゃんが行かなかったら、鈴丘さんは寂しいんでしょ」

  「それはもちろん」

  「じゃあ、いいじゃないですか。枯梗ちゃんだって寂しいよ」

  「でも、家族が離れるのも寂しいものだろ?」

  鈴丘は真っ直ぐに見つめて言う。向こうに見える若い男の子からはこんな質問が出ることはまずないだろう。女の子の言いなりにドレスの裾を直してはシヤッターを切っている。我保放題の女王様と従者みたいだ。

  「寂しいですよ、とっても」

  ハンサムな鈴丘の表情が暴った。

  「でも大丈夫。群馬にはお父さんの親類もいるし、わたしたちには副染みのある土地だから、枯梗ちゃんもうまくやってくれると思うよ。わたしももう巧だよ。そんなに心配しないで」

  鈴丘の心配はわかる。それ以上に枯梗が家族を置いていく気持ちになっていることも、本当は知っていた。

  「わたしはもう、そんなに簡単に入院したりしないから。ちゃんと体のことは気をつけられるから平気だよ。もうずっと調子いいんだから、大丈夫」

  ここで不幸な話は似合わない。パーフェクトに幸せな人たちだけの場所を汚したくなかった。

  茉莉が笑むと、鈴丘も小さく笑った。

  「ありがとう、茉莉ちゃん」

  「い1え、オニイサン」

  「うわ、それいいね。おにいさん」

  「でも枯梗ちゃんにもお姉ちゃんって言ったことないから、恥ずかしいな」

  「おにいさんがいいな、俺」

  「あ、総。会社の方、終わったの?」

  更衣室から枯梗が出てくると、周りの空気がふわっと変わる。 一瞬で他のお嫁さんたちが震んでしまう。従者の男の子も隠そうともせず枯梗に見惚れていた。

  鏡の前に枯梗と鈴丘が並ぶのを、茉莉はソファーに座ったまま眺めた。誇らしい幸福と慈愛に満ちていく。枯梗がいなくなることへの寂しさも不安も胸にとどめながら、シヤッターを切った。

  そうして桜の咲く頃、枯梗はお嫁に行った。

  茉莉は愛する姉へ感謝を込めて、ベールと結梗色の髪飾りを作った。レースにパールのビーズを手縫いでつけたべールをかけた姉は、誇らしくなるほど美しくて、泣きたいくらいいとおしかった。

  心は標やかで、春風は気持ちよく、花嫁は一点の長りもなく美しい。茉莉は心から幸せを感じていた。

  式は無事に終わり、参列者たちの見送りも一段落したので葉前は式場の化粧室へ向かった。入口の扉を開けようとしたその時、聞き覚えのある群馬の叔母たちの声に手が止まった。

  「茉莉はどうなるのかしらね」

  自分の名前が挙がった手前、扉を開けるのがためらわれた。

  「枯梗はこれで一段落だけど、茉莉はねえ」

  「母さんの病気が、まさか茉莉に遺伝するとはね」

  「息子たちも一応検診させてるわよ。なかなか早期発見は難しいみたいだけど……これ以上病人が出ないで欲しいわね」

  「わたしも娘を病院に行かせてるわ。茉莉みたいになったら困るもの。母さん、苦しんで亡くなったものね……。子どもの頃のことだけどいまだにはっきり覚えてるわ」

  「それでも、母さんくらい発症が遅ければ、結婚も望めたかもしれないけど……兄さんもつらいわね」

  扉のノブを持った手がするりと外れ、茉莉はその場から音を立てずに去った。

  「茉莉、帰るよ」

  つらい兄さんと呼ばれた父は晴れやかに笑っていた。大事な娘の結婚を何よりも誇らしそうにしていた父。周りの人にせかせかと頭を下げていた母も、今は解放されたように清々しく微笑んでいた。

  幸せな家族だった。だから、そこに一点の長りもあってはならなかった。

  茉莉は笑う。

  「さあ、帰ろう! なんだかお腹すいちゃったね!」

  駐車場の桜の花が、風に舞い上がった。薄紅の花吹雪に家族の気持ちはまた満たされていった。

  枯梗は臨と一緒に群馬へ引っ越して行った。

  食卓にできた空席で、枯梗はこの家に毎日帰ってこない人になったのだと痛感する。

  それはとても寂しく、そして心細くもあった。

  枯梗という華を失ったそこを埋めるように、茉莉は以前よりよく味るようになったし、テレビを見てお腹を抱えて笑うようになった。両親が枯梗の不在を寂しがらないように努めた。

  茉莉は食卓につくたびに不安になった。背後に嫌な影が立ったような緊張感をいつも感じた。もうひとつ空席ができた時、この食卓は崩壊してしまうのではないかと想像するのが怖かった。

  生きていてあげたいと思う。これ以上空席を出さないために、ずっとここにいてあげたい。けれど茉莉は笑うために、結梗のような幸せを諦めることを選んだ。しがみついて叶わなくて泣きわめくより、諦めて切り捨てて笑って過ごす方が自分らしい生き方だと知っているから。

  生きてあげたい。けれど死を捨てることもできない。死はすべてを終わりにしてくれる唯一の術だから。なんという選択肢なのだろうと、茉莉は運命を恨んだ。

  ガタガタとミシンを動かし新しい衣装を作りながら、思考は二者選択を揺れている。

  けれど結局さり着くのは余命宣告をした医師の声。それがピリオド。入院していた2年間は二度と繰り返したくないほど壮絶だった。検査も投薬も手術もすべてが叫び出しそうなくらいつらかった。けれど今まで生きていた中で一番頑張った。頑張れと言ってくる人に、これ以上何を頑張ればいいのと訊けるくらい、頑張ったと胸を張れる。それでも病気の進行は食い止められず、余命は変わらなかった。

  すべてをやりつくした瞬間、茉莉は燃え尽きてしまったのだ。戦場で白旗を揚げるまでもなく勝手に終結してしまったような虚無感だけが残った。

  諦めないとしがみついていたものが、するりと指先から離れていくあの感覚は絶望とか言うのだろう。そして大きく息を吐いた瞬間、頑張れる勇気はもう空っぱになっていた。

  この世にはどうにもならないことがある。頑張っても頑張ってもけっして覆せないことがある。それはきっと神さまが決めた宿命なのだろう。誰を親にして生まれてくるかを選べないような、絶対の定義。

  それを悟った時、諸めを知った。諦めることが唯一の救いだった。

  「う…つ…」

  ポタン、と大きな染みが布に広がる。

  慌ててミシンを止めて染みを拭うけれど、もう一粒涙が零れ落ちて大きな染みができた。真紅の生地に黒い染み。類を伝う雲がまた落ちる。

  茉莉はほつれる糸を引きちぎると、完成間近の衣装を床の上に叩きつけた。

  椅子に座ったまま、ひとりぼっちの部屋で茉莉は声を上げて泣いた。毎日蓄積されていく不安と選びようもない選択肢にほとほと心が疲れきって、癒えることのない不安を嘆いて泣いた。

  わたしは何のために生きて、何のために死ぬのだろう。

  どうしてわたしだったんだろう。逃げ道のないここは狭い艦の中みたいだ。どこく行っても結局壁にぶつかる。

  過去は変えられない。でも未来さえ変えられない

  死ぬことは怖い。

  でも生きることも怖い。

  人生を選ぶこともできない。